自分とのつきあいかた
「他人を許すことで、自分も許される」と思っている
ひとのあれやこれやについて深く掘り下げずに、自分が見えるところのみを、その人が自分に対して見せてくれている側面だけでも、愛してみる、許してみる 自分のどうしようもないところや、取るに足らないような部分も、それで許されるかもしれない
わたしがあなたのことを愛せないのなら、あなたも私のことを考えてくれないと考えたことがあります
どちらかが歩み寄らなければ、2人ともそれぞれの道を歩むのみですが、(その程度はどうであれ)人間同士の干渉という寄り道をするきっかけを作るためにも、たとえそれが「あなたから許されたい」というエゴから来るものだとしても、相手のことを愛してみたり、許してみるのも、自分が楽に生きるひとつの道や手法(手法と言ったら打算的で損得勘定で動いていて心が無いように思えますが)上手い心の運営方法だと考えます
自分はそんなに優しい人間でもないはずなのに、優しいねと言われたりするのには、このような心の持ち方があるのです
これを全て白状するには、まだ僕にはそれほど強くないわけです
心の拠り所、依存先を多く持つことで負担を減らしているのです。もしこうでなければ、数少ない友達や家族に大きな負担を背負わせていたであるだろうし、また誰か1人に固執してしまうようなこともあったでしょう。
それが悪いことだとは全く思っていませんが、わたしは他人に心配されたりするのが苦手だったり、自分が相手の負担になってないかがよく気になってしまうので、依存先を広く浅く保つこのやり方が合うんです
精神衛生向上
予定をパンパンに詰めることで、病む暇を与えないことで鬱病を予防している
いつか限界がきて倒れそうだけど、今んとこは病むこともなくなった
将来への不安も、まあまあ落ち着いた
新しい環境への適応に忙しい、かなと言いつつも
なんか起こってることをそのまま受け入れられるようになったというか、受容できるようになった、、それはそれとして納得できるようになりました。この世界と、数ある社会の中の自分が触れている/関わっている社会と、この社会に構成員と、自分と相手が、それぞれがそれぞれそういうものなんだと、腑に落とせるようになりました
自分も自分で、自分の存在に疑問を持つことも無くなりました。
その代わり、最近は愛について考えることがあります
私はまだわかりません
見える/見えない
文句を言う人の思考がよく分からないことがある.
なんか 私たちは 不完全で 完璧じゃなくて 愚かで 取るに足らない存在だと思いながら俺は生きているし, 他人の不仕末とか 不心得を目の当たりにした時でも,
まあ,不完全で取るに足らない私たちなんだからしょうがないよね,
と思って,許せてしまう.
だからこそ 君も取るに足らない存在であるはずなのに,文句を言ってしまう人は なんで自分のことを棚に上げて 他人に対して注意したり 文句を言ったりしてしまうのかなって思えるし なんでそういうことができるのかが 割と理解不能だったりする.
こういう人たちって,んん,なんというか「自分が普通にできていること/常識的に当たり前のことができない人たちもいる」ということをあまり知らないというか,知っていたとしても,僕達の苦しみとか,不安とか,僕達の持っている ある種の諦めとかを知らないんだろうな,と思って,ああ,こういった人たちからは俺は愛されることはないんだな,と感じてほんとうに悲しいし,苦しいんだよね
もし俺が完璧で,素晴らしくて,優れていて,特別だったら,愛されたいと苦しむこともないのかなーって思う
だって,みんな綺麗なものが好きだしね
完璧主義者
自分は完璧主義者なのかもしれないと、二つ前よの文章を書いてて思えてきました、
自分の足りないところを何かで埋め合わせてしまおうとしていることに気が付きました
それはお酒であったり、友人の数であったり、恋愛相手であったりします
多少は"自分が完璧ではない/不完全であること"を分かっていて、今まで自分は、
「*1 それが俺なんだ、形容詞1つで表せるものではなく、それが矛盾しているとしても、いくつものことばで言い表せて、なんならもはや言い表せない側面すらも持っている
それに、一度言い表してしまうと、その型にハマらないといけなくなって、不慮にはみ出せなくなる(不完全さ故に"俺という人間は、こうである"という文言に対しても矛盾してしまう)そしてもしはみ出してしまったとき、なんだか自分で自分のことを愛せなくなってしまう気がして言い表したくない」と思えるのです
寂しさをお酒で埋め合わせたり、自己顕示欲をインスタのフォロワー数で満たしてみたり、心の空白に女の子に縋ったり、満たされてたがっている
この文章を書いた今では
自分じゃどうにもならないことをどうにかしようとしてるのは人間として、寂しさを持つ動物として、普遍なことだと、そう考えることができました。
自分は、よく頭の中で「この世の全てを許すから俺のことも許してほしい」とか「世界が愛で満ちてほしい、そうしたら俺も誰か1人を愛しぬきたいし、俺も誰かに愛されたい、ひとりじめにされたい」とか、こういったことを言ってます
考えてみると、そこには "自分は取るに足らない存在なのは重々わかってはいるが、それでも他人から認められたい" とか
"自分が業にまみれているということは知っているが、それでも他人からの愛がほしい、俺も愛を持って触れるから君の愛も少しだけ見せてくれないか" とか
自分が幼少期から持っている劣等感を飲み水にして、愛を得たい喉の渇いたいきものだったわけです
今のところ 俺を愛してくれるのは太陽だけです
太陽は 皆を愛してくれる
だから俺も 愛を持てるってわけです
ただ 少しだけなんです ただ少しだけなので、他の人の愛も 少しだけでいいので 知ってみたいんです
#日記
*1:"完璧ではない/不完全であること"
正直、助かっている
こんなインターネットの片隅にも自分の心の中にある言葉を吐き出せる場所があることで正直、助かっている
吐き出すという表現にちょっと違和感を感じていますが、なんというか吐露というか、ちゃんとデジタルの文字というちゃんと見ることができて、ちゃんと残る媒体で自分の中に散らばっている文たちを置く場所があることで、今まで置き場所に困っていたテキストたちを分別できていると感じれるので、少しは、なんというか、楽なんです
ありがとう
ソシャゲをすると、病む
ソシャゲをすると、病む。
単純に1日のタスク量が増える。
暇な時は暇なままでいいのに
暇な時にスマホ扱っててそこのデジタル上にも仕事があるのが無理すぎる
最近 図書館に行きました
アフリカの民話をいくつか読みました
カバにはなぜ毛は生えていないのか、とか
ゾウの鼻がなぜ長いのか、とか
そういったことが書いてました
頭の回転数を落としたくて、童話を読もうと思ってて、図書館の児童本コーナーにイソップ童話集が置かれてたので最初はそれを読んでたのですが、なんかイソップ童話って教訓というか、その物語を読んで、「嘘はついちゃダメ」とか「他人に意地悪をしちゃダメ」とか「悪いことをしたら自分に返ってくる」とか色んなそういうものが押し付けがましく感じてしまって読むのが苦しくなってしまって途中で読むのを辞めました。
ウサギと亀の話とか、キツネとツルの話とか、羊の皮を被ったオオカミの話とか、全部私たち人間(読者)に対して、やっぱり「嘘はついちゃダメ」とか「他人に意地悪をしちゃダメ」とか「悪いことをしたら自分に返ってくる」とか動物を登場人物にしてデフォルメさせて気持ちよく人間の悪い部分を戒めてて、いや、それはそれでいいと思うというか、絶対教育的コンテンツとしては成り立つものだと知っているのですが、
正直、自分にとっては「そんなの完璧主義者の押し付けじゃないか、僕たちはいたって完璧じゃないし、嘘もつくし、悪いことだとわかっていながら悪事を働くこともあるよ 矛盾しているかもしれないが、その罪悪感に苛まれて寝れない夜だってあるんだ なぜそうも完璧主義で、それに排他主義なんですか、完璧じゃない私たちも許してほしいし、愛してほしい」そういう風に思ってしまって、読むのが辛くなって辞めました。
それでカバがなぜ水辺に住んでいるのか、とか、キリマンジャロ山の話とか、こんな風な自然に対する民話、言い伝えを読んでいたのです
あした、バイトの面接があります
まあ多分大丈夫だとは思いますが
なにせこの世界は完璧主義なのに、僕は不完全で矛盾だらけな人間なので こんな社会に適合するために息を潜めて生きていきます
うん
明日がまたありきたりな今日の続きでありますようにと思います おやすみなさい
心の余裕について
無理だった。
もうそろそろ1人で買い物するのも難なくできるようになってると思ってたけど、ちゃんと無理でした。
他の人の視線とか怖いし、買ったものに対して自分が責任取れるわけないし、全部被害妄想だと分かってはいるけどダメでした、1人で買い物はまだできるようにはなってなかった
心臓がバクバクって表現、誰が思いついたのか知りませんけど、まさにその通りで、鼓動の音が自分の体内で大きく響くんですね
無理でした。 こんな普通のことも普通にできません。また治ってきたと思ったらチャレンジしようと思います
普通に生きようとしている人のために誰かが寄り添ってあげないと生きていけない、なんだかんだこれって不足している愛なんですかね
抽象的過ぎるので愛って言葉はあんまり使いたくないですけど、僕が定義しているものは全体幸福度が〜的なものだと思っています。
はい、無理でしたというブログでした